義父の死から

 3月22日に義父が亡くなりました。入院から10日程度のあっという間の死でした。

18日出発予定でありましたが、上京できるかどうか決めかねていました。心臓の手術が23日以後と決まり、にこやかに話していたので安心して出かけました。20日朝突然の脳出血で転院したとの知らせで、予定を全てキャンセルして帰ってみると、出発前とはすっかり変わってしまった痛々しい姿でした。苦しい息使いをする義父の姿にどうすることもできない無力さを感じながらただ見守るだけでした。

2日後用事を済ませて病院に帰って上がろうとしていたとき、娘からの悲鳴に似た電話で駆け上がり、病室に着いたとき、引きつけるように泣く娘の姿に義父が息を引き取ったことを知らされました。まさか突然こんなことになるとは思いもしない状態だったのでみなそれぞれに帰り、夜の付き添いに備えて準備をしているときでした。たった一人看取らなければならなかったつらさと自分一人が看取って申し訳ないという皆への自責の思いを慰め、只一人でも側にいて看取ってくれたことに感謝しました。

 義父の生前から言っていた思いにより、葬儀らしきものは行わず供養も受けないと家族だけで祈りをあげるという通夜の予定でしたが、ご近所の方々の自主的なご参加はお止めできず、たくさんの方が見守ってくださいました。

 しかし、次の朝、今までお願いしていたお寺にお経だけでもとお願いに行くと、

戒名も要らないという者に私どもが出る幕はありません。と普段の顔とはずいぶん違う様子に驚いたものでした。

 僧侶というものの存在意義と宗教というものの存在理由を改めて考えさせられたものでした。宗教は違っても死者を悼む気持ちは人として共通のものだと思っていたのだが、死を扱うことに慣れ、「祈る」ことに慣れた方の中には「祈り」や「教えを広め、人を救う」行為より他の何かの方が大切なのだろうかと思い、私たちは間違った御方に間違ったことをお願いしたのかと悩んだものでした。

 今もまだ義父の死は現実のものと思えず、突然吹いた風に舞う桜吹雪の中で、もう一度一緒に桜を眺めながら飲みたかったなあと思う今日この頃です。